この手を離さない #R18 #ヒュンアバ
雨は… #ハドアバ
雨は… #ハドアバ
身体の関係はあるけど、お互い好きとか言わないハドアバ。
雨の日にハドラーを想うアバンのお話です。
--------------------
雨は嫌いです。特にこんな静かな雨の日は。
暗い雲の隙間から銀糸のように降り注ぐ雨はとても綺麗で、嫌でもあの人を思い出すから。
出窓のカウンターに肘をつき、窓ガラスに伝う水滴を内側から指でなぞった。
雨は嫌いだと言ったけれど、実のところ嫌いなのは雨ではなく、なんでもハドラーに準えて考えてしまう自分自身のことなのだとわかっている。
この止まない雨のように考えることをやめられず、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
街の花屋の娘に一目惚れし、今度声をかけてみようか悩んでいるんだ、いきなり話しかけて嫌われたりしないだろうか、と恋愛話に花を咲かせる城の兵士たちを横目に、静かに微笑みながらもその光景をどこか冷めた目で見ていた。
羨ましかったんです。
あの時の私は誰かを好きになることなど、自分には縁のないことだと思っていたから。
誰かを想い、悩む彼らがキラキラと輝いてみえた。眩しかった。
今を生きている、という感じがして。
今の私は周りから見たらあんな風に光って見えているのでしょうか。
実感は何一つありません。だって私の現実は、こんなにも苦しくてせつない。
なぜ、ハドラーなんでしょう。
本当はわかっているんです。
理屈じゃないんです。人を好きになることは。
普通ありえないじゃないですか。魔王と勇者ですよ?
止められるものならとっくにそうしています。
物分かりのいい子供だと、よく言われました。自分でもそう思っていました。自分のことを自分でコントロールできない日が来るなんて、思いもよらなかったんです。
思えば、この関係ははじめから異様だったんです。
戦いは膠着状態。私もハドラーも、ふたりとも体力も魔力も使い果たし、決着はつかないまま互いの胸倉を掴み合ってゼロ距離で睨み合った。
身体はまだ戦闘モード。昂った感情の行き場がなく、燻ぶった身体をどう扱っていいのかわからず、これで終わりにしたくないという焦燥感だけが募っていて。
目を逸らした方が負け。瞬きさえも許されざる状況の中、互いの瞳がかすかに揺れた。
次の瞬間、どちらからともなく口づけていた。
なんであんなことになったのか、自分でもわからない。
ええっと、これなんて言うんでしたっけ?
そう、『吊り橋効果』だ。怖くてドキドキするのを恋していると錯覚するやつ。私の脳は、戦いによる胸の昂りを恋愛のドキドキと勘違いしていたんです。きっと。
夢中で咥内を貪り合った。
途切れ途切れの呼吸の合間、薄く開けた目の端に、ハドラーがキメラの翼を取り出し放り投げるのが見えた。
次に目を開けたときには、薄暗い洞窟内に設えた部屋にふたり、立っていた。石造りの寝台の脇にある燭台では蠟燭の炎が静かに揺れていた。
「来い」
ハドラーは寝台にドカっと腰を下ろし、ローブを脱いで上半身裸で偉そうに言った。
「命令しないでください」
言われなくても行きますし、とムッとしながら私は答える。
パチンパチンと鎧の留め金を外していく。肩当てがカランと音を立てて石畳の床に転がった。ブーツを脱ぎ、ハドラーの両足の間に膝を立てる形で寝台に乗った。私はハドラーの両肩に手を置き、眼下の男をまじまじと見た。
この角度で魔王を見下ろす人間というものは、多分私くらいしかいないだろうな、と束の間の優越感に浸っていると、何をニヤついてるんだとハドラーに怪訝な顔をされた。
私の腰に手を回したハドラー手が脚の間にするりと入る。ビクっと身体を強ばらせた私にハドラーは、もしかして、と前置きしてから訊いた。
「まさかお前、初めてか?」
「わ、悪いですかっ」
顔を真っ赤にする私に、ハドラー呆れたような口調で言った。
「経験もないくせにこんなところにノコノコ着いて来たのか?」
「着いて来たって……お前が勝手に連れてきたんでしょうが!」
ムキになって騒ぐ私に興醒めしたのだろうハドラーは、はぁと大きく溜息をついた。それを見た私は少なからずショックを受けた。自慢じゃないけど私は男性はおろか女性とも関係を結んだことがないし、魔族なんて以ての外だった。一体、私のどこに手練手管の要素があるように見えたのでしょうか? 私は悔しいような悲しいような気持ちが綯交ぜになって、キュッと下唇を噛んだ。
けれどもハドラーは、存外優しく私を抱いた。
「……痛かったら言え」
自らの爪を折り、時間をかけて後孔を解した。無理やり挿入したりもしなかった。戦いの後だから傷だらけで、私の肌はあちらこちらに血が滲んでいたけれど、セックスでは一滴の血も流れなかった。
それから幾度となく、一戦交えた後は決まって裸で第二ラウンドにもつれ込むのが常だった。
喉を仰け反らせていや、やめて、もうだめ、を連呼する私の跳ねる身体を押さえ付けながらハドラーは「堪え性がない奴だな。まあ、でも勇者の泣き言を聞けるのは気分がいい」などと悪趣味なことを言って笑う。
そんなことを言いながらもハドラーは、自身でつけた私の身体の傷を労わるようにキスをした。先の戦いを振り返るように、傷を一つ一つ確かめるように「思ったより傷が深いな」と、その詫びだとでも言うように全身くまなく舌でなぞった。
意趣返し、というわけではないが、私もハドラーの傷を舐めてみたことがある。正直、魔族の青い血がどんな味なのか知りたいという知的好奇心もあった。人間の赤い血同様、鉄分のような何かの金属っぽい味がした。騎乗位のままうーんと唸り、しばらく何の成分か真剣に考え込んでいたら、どうやら最中に放っておかれ機嫌を損ねたらしいハドラーにわき腹をくすぐられ、思わず変な声が出た。魔王のくせに可愛いとこありますね、とクスクス笑ったら、そのあと散々泣かされたのだけど。
戦いの延長戦だったセックスは、いつの間にか文字通りの互いの傷をなめ合う時間となった。
もはや『吊り橋効果』だったかどうかなんて何の関係もなくなっていた。回を重ねるごとに気付いていたけど、もう誤魔化せない。
私はハドラーが好きです。
ハドラーに気持ちを確かめたことは一度もない。
だって、訊いてどうするんです?
――私のことが好きですか?
ノーと言われ、ただの性欲解消の相手だと再認識するのか。
万が一、イエスと言われたとしてどうするのか。
別に、どうにもなりませんよね。
傷付け合って、慰め合って、こんな関係がいつまでも続くわけないとわかっていても、少しでも長くこうしていられたら、と願ってしまう私はなんて愚かな勇者なのか。
いっそのこと乱暴に貫いてくれたほうが割り切れたかもしれないのに。
優しさなんていらないのに。
共に生きる未来など、ないのに。
――初恋は実らないものなんだってさ。
これは誰が言っていた言葉だったか。忘れたけど、別にどうでもいいことです。
初恋でなくても、実るはずがないのだから。
着の身着の儘、外へ出た。
急に降り出したわけでもないのに、この雨の中、何故傘も雨除けも無いまま出歩いているのかと、道ゆく人達に不思議そうな顔をされるが、構わず歩き続けた。こうしていれば涙を流していても気づかれることはない。私が人前で堂々と泣ける唯一の方法だった。知り合いに会って理由を尋ねられたのなら、途中で雨具が壊れてしまったのだとでも言えばいい。
雨は涙とともに頬を伝い流れ落ちるけれど、心のもやもやまでは流してはくれない。澱は胸の中に溜まる一方だった。
街外れの人気のない通りまで来て、随分と遠くまで来てしまったと後悔した。流石に寒くなってきて、近くにあった小屋の軒先で立ち止まり肩をすぼめた。空き家なのか、ヒビの入った窓ガラスから中の様子を伺うも人の気配はない。軒裏の蜘蛛の巣には吹き込んだ雨でついた水滴がきらりと光っている。
「何やってんだ」
不意に視界が暗くなった。
「風邪……ひくぞ」
ハドラーは雨に濡れて冷えた私の身体をすっぽりと自身のローブで覆った。服が濡れ、ぴたりと密着した部分から、冷えた身体にじんわり熱が伝わってくる。
「そんなに雨が好きなのか」
そんなにオレのことが好きなのかと問われているようで無性に腹が立った。
「嫌いです、雨なんて」
空は暗いし、服が濡れるし張り付くし、と私はぶつぶつ文句を言った。
「オレは好きだ」
自分のことを言われているわけではないとわかっているのに、私の心臓はその言葉に一瞬で反応し、跳ねた。
「嫌いです……」
目の前にあるハドラーの胸元のローブをギュッと握って少し引いた。
「あなたの、せいですよ」
「そうか」
それは悪かったな、ハドラーはそう言いながら悪びれる様子もなく、濡れた私を抱きしめたまま頭の上に顎を乗せ、こつんと軽く小突く。
八つ当たりもいいとこだと自分でも思う。私は申し訳なさが勝り、ハドラーを見上げて言った。
「嘘……。本当は、好き……です」
その言葉でハドラーの頬が一瞬、緩んだように見えた。
「い、言っておきますが、雨のことですからね?」
なんだか愛の告白をしたみたいな風に聞こえてしまったのではと思い、私は慌てて弁解し、下を向き顔を隠した。
「……そうか」
俯いたまま顔を上げようとしない私の頭上から優しくて低い声が降り注ぐ。
「オレは雨も好きだが」
「雨も、ってどういう意味ですか?」
思わず顔を上げて食い気味に尋ねてしまった。随分と必死だな、と自分でも思うがこの言葉は聞き捨てならない。
「さあな」
ハドラーはニヤリと笑うと、濡れて額に張り付いた私の前髪を指で器用に横に流した。額から流れた雫が小鼻を伝い、唇の端に溜まる。それをハドラーは親指で拭った。
「はどら……、ん」
どういう意味で言ったのか問いただそうとハドラー、と呼びかけ開いた口は、ハドラーの親指で大きく開かれ、侵入してきた舌に阻まれた。身体が冷えたせいで紫色になっていた私の唇が本来の色を取り戻すまで、それほど時間はかからなかった。
まだ雨はしばらく止みそうにない。
身体の関係はあるけど、お互い好きとか言わないハドアバ。
雨の日にハドラーを想うアバンのお話です。
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雨は嫌いです。特にこんな静かな雨の日は。
暗い雲の隙間から銀糸のように降り注ぐ雨はとても綺麗で、嫌でもあの人を思い出すから。
出窓のカウンターに肘をつき、窓ガラスに伝う水滴を内側から指でなぞった。
雨は嫌いだと言ったけれど、実のところ嫌いなのは雨ではなく、なんでもハドラーに準えて考えてしまう自分自身のことなのだとわかっている。
この止まない雨のように考えることをやめられず、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
街の花屋の娘に一目惚れし、今度声をかけてみようか悩んでいるんだ、いきなり話しかけて嫌われたりしないだろうか、と恋愛話に花を咲かせる城の兵士たちを横目に、静かに微笑みながらもその光景をどこか冷めた目で見ていた。
羨ましかったんです。
あの時の私は誰かを好きになることなど、自分には縁のないことだと思っていたから。
誰かを想い、悩む彼らがキラキラと輝いてみえた。眩しかった。
今を生きている、という感じがして。
今の私は周りから見たらあんな風に光って見えているのでしょうか。
実感は何一つありません。だって私の現実は、こんなにも苦しくてせつない。
なぜ、ハドラーなんでしょう。
本当はわかっているんです。
理屈じゃないんです。人を好きになることは。
普通ありえないじゃないですか。魔王と勇者ですよ?
止められるものならとっくにそうしています。
物分かりのいい子供だと、よく言われました。自分でもそう思っていました。自分のことを自分でコントロールできない日が来るなんて、思いもよらなかったんです。
思えば、この関係ははじめから異様だったんです。
戦いは膠着状態。私もハドラーも、ふたりとも体力も魔力も使い果たし、決着はつかないまま互いの胸倉を掴み合ってゼロ距離で睨み合った。
身体はまだ戦闘モード。昂った感情の行き場がなく、燻ぶった身体をどう扱っていいのかわからず、これで終わりにしたくないという焦燥感だけが募っていて。
目を逸らした方が負け。瞬きさえも許されざる状況の中、互いの瞳がかすかに揺れた。
次の瞬間、どちらからともなく口づけていた。
なんであんなことになったのか、自分でもわからない。
ええっと、これなんて言うんでしたっけ?
そう、『吊り橋効果』だ。怖くてドキドキするのを恋していると錯覚するやつ。私の脳は、戦いによる胸の昂りを恋愛のドキドキと勘違いしていたんです。きっと。
夢中で咥内を貪り合った。
途切れ途切れの呼吸の合間、薄く開けた目の端に、ハドラーがキメラの翼を取り出し放り投げるのが見えた。
次に目を開けたときには、薄暗い洞窟内に設えた部屋にふたり、立っていた。石造りの寝台の脇にある燭台では蠟燭の炎が静かに揺れていた。
「来い」
ハドラーは寝台にドカっと腰を下ろし、ローブを脱いで上半身裸で偉そうに言った。
「命令しないでください」
言われなくても行きますし、とムッとしながら私は答える。
パチンパチンと鎧の留め金を外していく。肩当てがカランと音を立てて石畳の床に転がった。ブーツを脱ぎ、ハドラーの両足の間に膝を立てる形で寝台に乗った。私はハドラーの両肩に手を置き、眼下の男をまじまじと見た。
この角度で魔王を見下ろす人間というものは、多分私くらいしかいないだろうな、と束の間の優越感に浸っていると、何をニヤついてるんだとハドラーに怪訝な顔をされた。
私の腰に手を回したハドラー手が脚の間にするりと入る。ビクっと身体を強ばらせた私にハドラーは、もしかして、と前置きしてから訊いた。
「まさかお前、初めてか?」
「わ、悪いですかっ」
顔を真っ赤にする私に、ハドラー呆れたような口調で言った。
「経験もないくせにこんなところにノコノコ着いて来たのか?」
「着いて来たって……お前が勝手に連れてきたんでしょうが!」
ムキになって騒ぐ私に興醒めしたのだろうハドラーは、はぁと大きく溜息をついた。それを見た私は少なからずショックを受けた。自慢じゃないけど私は男性はおろか女性とも関係を結んだことがないし、魔族なんて以ての外だった。一体、私のどこに手練手管の要素があるように見えたのでしょうか? 私は悔しいような悲しいような気持ちが綯交ぜになって、キュッと下唇を噛んだ。
けれどもハドラーは、存外優しく私を抱いた。
「……痛かったら言え」
自らの爪を折り、時間をかけて後孔を解した。無理やり挿入したりもしなかった。戦いの後だから傷だらけで、私の肌はあちらこちらに血が滲んでいたけれど、セックスでは一滴の血も流れなかった。
それから幾度となく、一戦交えた後は決まって裸で第二ラウンドにもつれ込むのが常だった。
喉を仰け反らせていや、やめて、もうだめ、を連呼する私の跳ねる身体を押さえ付けながらハドラーは「堪え性がない奴だな。まあ、でも勇者の泣き言を聞けるのは気分がいい」などと悪趣味なことを言って笑う。
そんなことを言いながらもハドラーは、自身でつけた私の身体の傷を労わるようにキスをした。先の戦いを振り返るように、傷を一つ一つ確かめるように「思ったより傷が深いな」と、その詫びだとでも言うように全身くまなく舌でなぞった。
意趣返し、というわけではないが、私もハドラーの傷を舐めてみたことがある。正直、魔族の青い血がどんな味なのか知りたいという知的好奇心もあった。人間の赤い血同様、鉄分のような何かの金属っぽい味がした。騎乗位のままうーんと唸り、しばらく何の成分か真剣に考え込んでいたら、どうやら最中に放っておかれ機嫌を損ねたらしいハドラーにわき腹をくすぐられ、思わず変な声が出た。魔王のくせに可愛いとこありますね、とクスクス笑ったら、そのあと散々泣かされたのだけど。
戦いの延長戦だったセックスは、いつの間にか文字通りの互いの傷をなめ合う時間となった。
もはや『吊り橋効果』だったかどうかなんて何の関係もなくなっていた。回を重ねるごとに気付いていたけど、もう誤魔化せない。
私はハドラーが好きです。
ハドラーに気持ちを確かめたことは一度もない。
だって、訊いてどうするんです?
――私のことが好きですか?
ノーと言われ、ただの性欲解消の相手だと再認識するのか。
万が一、イエスと言われたとしてどうするのか。
別に、どうにもなりませんよね。
傷付け合って、慰め合って、こんな関係がいつまでも続くわけないとわかっていても、少しでも長くこうしていられたら、と願ってしまう私はなんて愚かな勇者なのか。
いっそのこと乱暴に貫いてくれたほうが割り切れたかもしれないのに。
優しさなんていらないのに。
共に生きる未来など、ないのに。
――初恋は実らないものなんだってさ。
これは誰が言っていた言葉だったか。忘れたけど、別にどうでもいいことです。
初恋でなくても、実るはずがないのだから。
着の身着の儘、外へ出た。
急に降り出したわけでもないのに、この雨の中、何故傘も雨除けも無いまま出歩いているのかと、道ゆく人達に不思議そうな顔をされるが、構わず歩き続けた。こうしていれば涙を流していても気づかれることはない。私が人前で堂々と泣ける唯一の方法だった。知り合いに会って理由を尋ねられたのなら、途中で雨具が壊れてしまったのだとでも言えばいい。
雨は涙とともに頬を伝い流れ落ちるけれど、心のもやもやまでは流してはくれない。澱は胸の中に溜まる一方だった。
街外れの人気のない通りまで来て、随分と遠くまで来てしまったと後悔した。流石に寒くなってきて、近くにあった小屋の軒先で立ち止まり肩をすぼめた。空き家なのか、ヒビの入った窓ガラスから中の様子を伺うも人の気配はない。軒裏の蜘蛛の巣には吹き込んだ雨でついた水滴がきらりと光っている。
「何やってんだ」
不意に視界が暗くなった。
「風邪……ひくぞ」
ハドラーは雨に濡れて冷えた私の身体をすっぽりと自身のローブで覆った。服が濡れ、ぴたりと密着した部分から、冷えた身体にじんわり熱が伝わってくる。
「そんなに雨が好きなのか」
そんなにオレのことが好きなのかと問われているようで無性に腹が立った。
「嫌いです、雨なんて」
空は暗いし、服が濡れるし張り付くし、と私はぶつぶつ文句を言った。
「オレは好きだ」
自分のことを言われているわけではないとわかっているのに、私の心臓はその言葉に一瞬で反応し、跳ねた。
「嫌いです……」
目の前にあるハドラーの胸元のローブをギュッと握って少し引いた。
「あなたの、せいですよ」
「そうか」
それは悪かったな、ハドラーはそう言いながら悪びれる様子もなく、濡れた私を抱きしめたまま頭の上に顎を乗せ、こつんと軽く小突く。
八つ当たりもいいとこだと自分でも思う。私は申し訳なさが勝り、ハドラーを見上げて言った。
「嘘……。本当は、好き……です」
その言葉でハドラーの頬が一瞬、緩んだように見えた。
「い、言っておきますが、雨のことですからね?」
なんだか愛の告白をしたみたいな風に聞こえてしまったのではと思い、私は慌てて弁解し、下を向き顔を隠した。
「……そうか」
俯いたまま顔を上げようとしない私の頭上から優しくて低い声が降り注ぐ。
「オレは雨も好きだが」
「雨も、ってどういう意味ですか?」
思わず顔を上げて食い気味に尋ねてしまった。随分と必死だな、と自分でも思うがこの言葉は聞き捨てならない。
「さあな」
ハドラーはニヤリと笑うと、濡れて額に張り付いた私の前髪を指で器用に横に流した。額から流れた雫が小鼻を伝い、唇の端に溜まる。それをハドラーは親指で拭った。
「はどら……、ん」
どういう意味で言ったのか問いただそうとハドラー、と呼びかけ開いた口は、ハドラーの親指で大きく開かれ、侵入してきた舌に阻まれた。身体が冷えたせいで紫色になっていた私の唇が本来の色を取り戻すまで、それほど時間はかからなかった。
まだ雨はしばらく止みそうにない。
イマジナリー・ラヴァー #R18 #ヒュンアバ
stay close #ハドアバ
stay close #ハドアバ
武人ハドラー×大勇者アバン
大戦後のハドラー復活ifのハドアバ。
アバン先生が先に亡くなるお話ですが、転生とかはありません。
ハッピーエンドではありませんが、バッドエンドでもありません。
死ネタですので苦手な方はご注意下さい。
--------------------
――アバン享年47歳。
大勇者の早すぎる死に、皆悲しみに暮れた。
◇
アバンがハドラーを蘇らせたのは15年前のことだ。
ハドラー、私のことがわかりますか? あなたは一度この世を去りましたが、私の我儘であなたを蘇らせました。ダイくんの捜索に力を貸してもらえませんか? あなたの協力が必要なんです。ただ、蘇らせた理由はそれだけじゃありません。亡くなる直前のあなたは、私の知らない間に以前とは全く違う武人になっていて……。もっと知りたいと思ったんです。あなたのことを。
どうやって蘇らせたのかって? もちろん禁呪法ですよ。ヨミカイン遺跡が発掘されたんです。随分昔に崩れて無くなってしまったのですが、少し前にあの辺りで大きな地震があって断層ができたんです。一部の書架が奇跡的に残っていました。その中にあったのは魔族の人体錬成の本でした。これほど運命を感じたことはありません。
反対? もちろんされましたよ? 魔王を蘇らせるなんてとんでもないと。私が錬成対象の『情報』としてあなたの遺灰のほかに私の身体の一部も入れた呪法で作り出しました。なので、術者である私の命が尽きるときあなたの命も尽きます。みなさんへは、もし蘇らせた魔王が再び脅威となったときは自ら命を絶ちますと宣言しましたよ。
「どうか私を長生きさせてくださいね」
目覚めて間もないハドラーに矢継ぎ早に早口で状況報告をすると、アバンはいたずらっぽく笑いかけた。
「今更人間をどうこうしようとは思わん」
フンッと鼻を鳴らしたハドラーのことをアバンは優しい眼差しで見つめている。
ポップを死なせずに済んだ。アバンの腕の中で灰となった後、ジャッジのメガンテからアバンを守れた。それで十分だ。オレに思い残すことはなかった。最早、地上を支配するなどという考えは毛頭ない。
「あなたには、残りの人生を私と共に生きてもらいます。ノーとは言わせませんよぉ」
アバンは人差し指をピンと立て、仰向けに横たわるハドラーの鼻先をちょんとつついた。
「起き抜けにペラペラと喋られても頭が追いつかんわ」
やめんか、とアバンの指を手で払いのけ顔を背けようとすると、
「いいから! イエスかハイで答えてください」
ハドラーの頬をぐっと両手で挟み、強制的にアバンのほうへ顔を向けさせた。
何がイエスかハイだ。選択肢が一択しかないだろうが。
「……イエスだ」
口をへの字に曲げたハドラーが観念したように答えると、アバンはまるで弟子に話しかけるように「はい。よく出来ましたね」とにっこり笑い、ハドラーの身体を抱き起こした。
元勇者と元魔王、人間と魔族、光と闇、対極にある二人だったがまるで磁石のS極とN極のように強く惹かれ、お互いを求めるまでさほど時間はかからなかった。
なんでもない平凡で穏やかな日常が、ずっと続くと思っていた。
アバンと共に命尽きるその日まで。
◇
ハドラーを蘇らせるために、相当な寿命を使ってしまったのだろうか。
アバンは自分の死期を悟っていた。アバンの一部を取り込み蘇ったハドラーにもその感覚は分かった。
術者である私の命が尽きるとき、あなたの命も尽きます、とアバンは確かにそう言っていた。はずなのに。どうしてか、ハドラー自身には死の兆候がなかった。
一体どういうことなんだ?
「もしかしてパーフェクトに蘇生しちゃったんですかねぇ? 私ってやっぱり天才でしたか、ははっ」
いやぁ、まいったといわんばかりにカラカラ笑っている。
「勝手に蘇らせておいて先に逝くヤツがおるか」
お前のいないこの世界に未練などない。オレもすぐに後を追う、そう言いかけて、
「自ら命を絶つなんてこと、絶対やめてくださいね?」
先手を打たれた。
「あなたの中には私の一部が入ってるんですよ。謂わば一心同体なんです。大丈夫ですよ。私はずっとあなたの中に居るんですから、そんな怖い顔しないでください。ね?」
アバンは、ギリっと奥歯を噛みしめ険しい顔をしているハドラーを覗き込むようにし、銀糸のような髪をするりと耳にかけ優しく頬を撫でた。
「ねぇ、ハドラー、私の代わりに見届けて。この世界の行く末を。私の愛した地上の未来を」
まるで幼い子供に言い聞かせるようにアバンは微笑みかけたが、ハドラーの視界は暗いままだった。
――オレにはお前のいない未来が見えん。
「闘って死ぬことなど、別に怖くなかった。でも今は死ぬことが……ハドラー、あなたのいない世界に行くのが怖くてたまらない」
自分の死を悟ってからというもの、いつも以上に明るく振る舞うアバンがある夜に零した本音だった。
日に日に小さくなっていく命の灯を感じながら、ただ抱き合うことしかできずにいた。
「あなたを残して逝くのはつらいです」
アバンは困ったように眉をひそめて、でも口だけは無理矢理笑うように弧を描いた。
オレを置いていくな。アバン。
ハドラーの声は声にはならなかった。
アバンの細い肩をきつく抱きすくめると、アバンもハドラーの背に手を回して力を込めた。
「このままふたり溶け合って、明日の朝になったらひとつになってませんか……ね」
ハドラーは祈った。この男を死なせないでくれ、と。
人間の神に祈るのはこれが二度目だ。だが、オレにも分かったことがある。
――奇跡はそう何度も起こらない。
アバンがいなくなる。大切な人を失うことは、こんなにも辛い。
魔王として破壊の限りを尽くし、散々命を奪った人々にも皆、大切な人はいたはずで。
何度も神に祈るなんてのは虫がよすぎる話だ。
そんなことは、わかっている。
「最後の最期まで、手を握っていてくださいね。色々ありましたけど、あなたに出会えてよかった。ハドラー、ねぇ笑って。最後にあなたの笑顔、この瞳に焼き付けたいんです」
そう言って柔らかく笑うアバンに言われるがままやってみたが、うまく笑えてたのかどうか自分ではわからない。
わかるのは、オレの顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだということだけ。
「アバン……」
「ふふ、ありがとう。ハドラー」
静かに微笑んで、そのままゆっくりと目を閉じた。
眠っているかのように見えたが、アバンが再び目を覚ますことはなかった。
ハドラーはアバンの手を両手で握りしめたまま、咆哮をあげた。
◇
「うわっ、いたのかよ」
突然パッと周りが明るくなったことに驚いて後ろを振り向くと、背後にポップが立っていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからないが辺りはすっかり暗くなっていて、訪ねてきたポップに「明かりくらい点けろよな」と言われるまで、家に入ってきたことすら気付かなかった。
「……った」
「え?何だって?」
「アバンが逝った」
「……そっか」
ポップはベッドに近づくと、横たわるアバンを見つめ目を細めた。
「先生、眠ってるみたいだな」
アバンの亡骸を前に以外と冷静なポップに向かって、お前はもっと取り乱すと思っていたぞ、というと、
「オレもそう思ってたよ。でもなんか先生幸せそうでさ、なんか妙に納得したようなよくわかんないような、不思議な気持ちだよ」
まだ実感湧かないだけかもな、と鼻の頭を掻いた。
アバンたっての希望で葬儀は小さな教会でしめやかに執り行われた。弟子たちがかわるがわる白い棺に色とりどりの花を手向けている。
出棺の前にポップが気を遣って、先生とハドラーふたりだけにしてやってくれないかと周りに頼んでくれていた。
自分のことはてんで鈍いくせに、昔から人のことになると相変わらずよく気の付く奴だと感心する。
棺に横たわるアバンはいつもと変わらず綺麗な顔をしていて、眺めていると本当にただ眠っているだけのような気がしてきた。
「アバン、起きろ」
そろりと白い頬を撫でる。
いつだったか城の祝い事でしこたま飲んで帰った翌朝、珍しく寝起きの悪いアバンを起こしに行ったとき「おはようのキスしてくれたら起きますよぉ」と、んーと唇を突き出されたことがある。
あのときは「そんな恥ずかしいマネできるかっ!」とアバンを米俵のように担ぎ居間へと運んだのだった。もーっ照れ屋さんですねぇとクスクス笑っていたアバンのことを昨日のことのように思い出す。
「なぁ、起きてくれ」
オレはアバンにそっと口付けた。
「キスしたら起きるんだろ……」
もう一度、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
「目を開けてくれ……アバン……」
アバンが目を開けることはなかった。
白い顔にポタポタと雫が落ち、いくつもの水玉模様を作る。
ハドラーの喉がひゅっと鳴った。
次の瞬間。
「うっ……くっ……」
突然息ができなくなった。
「ハドラー!どうした?」
あまりに苦さにもがいていると、異変に気付いたポップがバンと扉を開けて駆け寄ってきた。
「過呼吸だっ」
ポップは懐から薬草の袋を取り出し、大急ぎで中身を振って出しハドラーの口へ袋を当てる。
「ゆっくり息を吐いてから吸うんだ。そう、ゆっくり」
吸って吐いてを何度か繰り返し、なんとか呼吸を整えたハドラーが口を開いた。
「教えてくれ、ポップ」
ハドラーは大きな体を小さく屈め、肩で大きく息をしている。
「呼吸の仕方すらわからなくなるとは。オレはいつからこんな弱い奴になったんだ」
目に涙を溜めてそう尋ねる元魔王のことをこの青年はどう思っているのだろうか。
「オレさぁ31歳になったんだ。大戦の時の先生と同じ歳なんだぜ。あの時の先生って大人で、強くて、優しくて。なのにさぁ、オレ、この歳になってもびっくりするくらいガキのままなんだよ。やっぱ先生ってすげーんだなって思ったよ。その先生が選んだのがアンタだろ!」
ハドラーの背中をバシッと叩いた。
「思いっきり泣いていいんだぜ、ハドラー。ここにはオレとアンタしかいないからさ」
ポップは背中を丸めてしゃがんだままのハドラーの背に寄りかかり、オレはアンタの泣き顔なんてとうの昔に知ってるしな。ニヒヒと意地悪く笑う。
「鼻タレ小僧が生意気言うな」
「うるせー、鼻水はハドラーの専売特許じゃないんだぜ?」
肩をすくめ、三十路に向かって小僧とか言うなよなーと口を尖らせているポップも、いつのまにやら涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「みんな、みんな、先生のことが大好きだったんだ」
大の男が二人して声をあげてわんわん泣いた。
傍から見たらなかなかシュールな光景だ。
これを見てアバンもあらあら、ふたりとも泣き虫ですねぇ、なんて笑ってくれたらいいなと思った。
◇
葬儀から数日はアバンの弟子たちが代わる代わる家にやってきては、何かと世話を焼きにきてくれた。
調理しなくてもすぐに食べられる物を差し入れてくれたり、手合わせしてくれとせがんだり、用もないのに勝手にやってきては居間でお茶会を始める女たちもいた。
そのおかげか寂しさを感じる間もなく、お前たちはホントやかましいなと軽口を叩けるくらいに素直に有難いと思えた。
しばらくするとみな自分たちの生活に戻っていったが、ハドラーは未だにアバンのいない生活に慣れてはいなかった。
茶でも飲むかと鍋を火にかけたが、茶筒が空だ。茶葉のストックがとこにあるのか、わからない。吊戸棚や納戸を探してみたが見当たらなかったので、仕方なく白湯を飲んだ。
特段腹は減ってなかったが、とりあえず飯を作ってみることにした。目玉焼きと野菜のスープ。
これまでと同じ材料・道具を使い、同じ調理法のはずだがあまり美味くはない。あいつが作ったものなら、やれ黄身に火を通しすぎだとか、もうちょっと味付けを濃くしろだとか色々文句も言えたのだが、自分が作ったのではぼやくことしかできない。
オレが持っていても役に立たん、と形見分けで弟子たちに色々持っていってもらったため、家にあるアバンの物は少なく、残っていたのは流しの歯ブラシ、クローゼットの服、家事をするときに着けていたエプロンくらいだった。
「えっ! 歯磨きしたことないんですか? 魔族は虫歯にならないんですかねぇ」魔族の口内環境と虫歯菌との因果関係がとても気になりますねぇ。ぶつぶつ独り言を言ったかと思うと、「虫歯にならいとしても、エチケットですから! あなたも歯を磨いてくださいね。あ、もしかして磨き方がわからないとか? じゃあわたしがやってあげますから、はい、あーんして?」拒否しようものなら歯ブラシでアバストされそうな勢いだったので、大人しく口を開けた。
「自分で脱ぎますから! ボタン引きちぎるのやめてくれません?」むすっとした顔のアバンと目が合った。脱がせたいのだと言うと「じゃあボタンは一個ずつ外してくださいよ。繕うの大変なんですから!」わかったが……じれったいな。「焦らなくても夜は長いですから……」細い指先でオレの顎をなぞるアバンの色を含んだ仕草に、やはり我慢ができずボタンは飛んだ。「こらっ!ハド……んっ……」言い終わらないうちに口を塞いでしまえば、文句がすぐに甘い声に変わるのはいつものことだった。
紐が解けているぞ、と背後から声を掛ける「今手が離せないんで結んでもらえませんか?」アバンは洗い物をしながら顔だけこちらを向けた。エプロンの紐に手を延ばし蝶結びにする。「ありがとうございます、ハドラー。以外に手先が器用ですよね、あなたって。服のボタンは引きちぎっちゃうくせに」こやつ……相当根に持ってるな。
静まり返った家でハドラーは、生活の中にアバンがいた痕跡を見つけては目尻が涙で滲んでいる。これまでポップのことを散々泣き虫だとからかってきたくせにだ。
レオナ姫が人間用の中では一番大きいサイズのものを贈ってくださったんですよ、とアバンが言っていた、二人で暮らす粗末な家には不釣り合いなキングサイズのベッド。それでも男二人で寝るには狭かったのだが。寝相の悪いアバンから肘をくらいながら、窮屈でかなわんと文句を言いつつ、狭いベッドにひしめき合って眠るのは存外悪くなかった。
ひとり大の字になって寝てみるとわかる。
案外広かったんだな、このベッド。
ぽすっと枕に顔を埋めるとアバンの匂いがする。
目を瞑ればすぐ隣にいるような気がして思わず伸ばした手が空を切る。
ついこの間まで、確かにここにいたのに。何度も身体を重ね合わせたあいつはもういない。
「んっ、ぁ……ハドラー……、ハドラーぁ」
気持ちいいと伝えたいのか恥ずかしそうに目を伏せて、何度もオレの名を呼ぶアバンの声が好きだった。
乱れた空色の髪の匂い、
絡ませた舌の熱さ、
目に溜めた涙の甘さ、
重ねた肌の汗ばんだ感触、
オレを迎い入れる胎内の柔らかさ、
まだ、こんなにも……覚えている。
オレはいつか忘れてしまうのだろうか。
アバンのぬくもりを。
アバンと過ごした日々が無くなるわけではないのはわかっている。が、オレはアバンを想い出になどしたくはない。
――女々しいな。
元魔王が聞いてあきれる。
夜とはこんなにも長いものだったか?
はぁっと深く溜息をついたハドラーは、今日もひとり眠れぬ夜を過ごす。
◇
「ダイ!大丈夫か?」
「ポップ!大変なんだよ!」
知らせを受け、急いでダイの元へ向かった。
ダイの話によると、ハドラーと共に魔界でのならず者討伐の依頼を終え帰還する途中、とある奥地に黒魔晶があるという噂を聞きつけ、捜索に向かったのだという。
黒魔晶というのは魔力を無尽蔵に吸収する石のことだ。これを原材料とし、呪術で加工した爆弾が黒の核晶だ。
大魔王バーンによってハドラーの体内に埋め込まれた核晶をドルオーラで抑え込んだバランは絶命。爆発寸前のキルバーンの人形を抱えて空へ飛び、一人地上から消えたダイ。皆で何年も捜索し、やっと見つけたのは数年前のことだ。
ダイとハドラーにとって因縁の黒の核晶。
黒魔晶がこの一帯にのみ存在するものなのかは定かではないが、少なくともこれらを破壊すればその分新たな黒の核晶は造られることはないのだ。二人の意見は「黒魔晶破壊」の一択だった。
討伐後で多少体力が落ちているとはいえ、石の破壊などダイとハドラーの力では造作もないことで。
ただそこで呪術師と居合わせたのが誤算だった。
加工するための石を採掘に来ていたのだろう。一帯の石を破壊されるのを恐れ、なんとか阻止しようとありったけの魔法力を黒魔晶に込めて攻撃してきたのだ。
幸い、一瞬で魔法力を込めただけの黒魔晶には黒の核晶ほどの威力はなかった。それでも黒の核晶を精製できるほどの呪術師だ。相当の魔力の持ち主だったらしい。致命傷を負った二人は瀕死の状態でなんとかキメラの翼を使い、地上へ戻ってきたのだ。
「ダイ、お前の怪我はどうなんだ?」
「ハドラーが庇ってくれたんだ。レオナに回復呪文ベホマかけてもらったし、オレは大丈夫」
「そうか。ならよかった」
ポップはほっと胸をなで下ろした。
「でもハドラーがどこかへ行っちゃったんだ。まだ止血もしてないのに。オレよりもずっとひどい傷だったのにレオナにダイオレを優先してくれって……」
ダイもすでに20代後半になっているが、どうしようポップ、と泣きそうになっている姿は一緒に冒険を始めたばかりのあの頃を彷彿とさせた。
「ハドラーはオレが探すから。ダイ、お前は休んでろ」
「オレも一緒に行くよ!」
「ダメだ。ちゃんと完全回復しとけ。姫さんに心配かけるな」
「……わかったよポップ」
ついて来ようとするダイをなんとか宥め、ポップは尋ねた。
「ハドラーの奴、なんか言ってたか?」
えーと……としばらく考えていたダイがぽつりと呟いた。
「これなら奴に叱られずに済むかな……って言ってた気がする」
◇
オレはすぐさまハドラーを探した。
といっても、ハドラーの行きそうなところなんていくつもない。
ハドラーはすぐに見つかった。
確かにひどいダメージを受けたと聞いたが、すぐに回復呪文をかければ一命をとりとめることはできたかもしれないのに。
でもアンタはそれを望まなかった。
体中の血がすべて流れ出るまで、かなりの時間を要したはずなんだ。
段々と冷たくなり、固まる身体。
二つの心臓が順に止まるその瞬間まで、相当な痛みがあったはずなんだ。
苦しかったに違いないんだ。
でも笑ってたんだ。
先生を抱きしめるように墓石を抱きかかえ、幼い子どものように背中を丸めて横たわっていた。
手には空色の花を握り締めて。
まるでいい夢でも見てるかのように微笑んでた。
ハドラーからは生前、オレの遺灰はよく晴れた日にアバンの眠る丘の上から撒いてくれと頼まれていた。
「なに言ってんだよ。冗談やめろよ」
そのときは、縁起でもねぇ、とぶっきらぼうに返事をしたがあれは本気だったんだ。
「まだ……ダメか……」
魔界での討伐依頼の後に俯き呟くハドラーの姿を何度も見かけたことがある。
先生の言いつけを守って自死を選ぶことはしなかったハドラーだが、本当はずっと死にたがっていたんだ。
一刻も早く先生の元に行きたくて。
「じゃあな、ハドラー」
アバンの墓石の前に立ち、ポップは遺灰の入った袋に声を掛けた。
袋を逆さにし、遺灰をさらさらと掌に落とす。
それはキラキラと舞い上がり、辺り一面を銀色に輝かせたあと、ふわりと風に乗って青い空に消えた。
――先生によろしくな。
武人ハドラー×大勇者アバン
大戦後のハドラー復活ifのハドアバ。
アバン先生が先に亡くなるお話ですが、転生とかはありません。
ハッピーエンドではありませんが、バッドエンドでもありません。
死ネタですので苦手な方はご注意下さい。
--------------------
――アバン享年47歳。
大勇者の早すぎる死に、皆悲しみに暮れた。
◇
アバンがハドラーを蘇らせたのは15年前のことだ。
ハドラー、私のことがわかりますか? あなたは一度この世を去りましたが、私の我儘であなたを蘇らせました。ダイくんの捜索に力を貸してもらえませんか? あなたの協力が必要なんです。ただ、蘇らせた理由はそれだけじゃありません。亡くなる直前のあなたは、私の知らない間に以前とは全く違う武人になっていて……。もっと知りたいと思ったんです。あなたのことを。
どうやって蘇らせたのかって? もちろん禁呪法ですよ。ヨミカイン遺跡が発掘されたんです。随分昔に崩れて無くなってしまったのですが、少し前にあの辺りで大きな地震があって断層ができたんです。一部の書架が奇跡的に残っていました。その中にあったのは魔族の人体錬成の本でした。これほど運命を感じたことはありません。
反対? もちろんされましたよ? 魔王を蘇らせるなんてとんでもないと。私が錬成対象の『情報』としてあなたの遺灰のほかに私の身体の一部も入れた呪法で作り出しました。なので、術者である私の命が尽きるときあなたの命も尽きます。みなさんへは、もし蘇らせた魔王が再び脅威となったときは自ら命を絶ちますと宣言しましたよ。
「どうか私を長生きさせてくださいね」
目覚めて間もないハドラーに矢継ぎ早に早口で状況報告をすると、アバンはいたずらっぽく笑いかけた。
「今更人間をどうこうしようとは思わん」
フンッと鼻を鳴らしたハドラーのことをアバンは優しい眼差しで見つめている。
ポップを死なせずに済んだ。アバンの腕の中で灰となった後、ジャッジのメガンテからアバンを守れた。それで十分だ。オレに思い残すことはなかった。最早、地上を支配するなどという考えは毛頭ない。
「あなたには、残りの人生を私と共に生きてもらいます。ノーとは言わせませんよぉ」
アバンは人差し指をピンと立て、仰向けに横たわるハドラーの鼻先をちょんとつついた。
「起き抜けにペラペラと喋られても頭が追いつかんわ」
やめんか、とアバンの指を手で払いのけ顔を背けようとすると、
「いいから! イエスかハイで答えてください」
ハドラーの頬をぐっと両手で挟み、強制的にアバンのほうへ顔を向けさせた。
何がイエスかハイだ。選択肢が一択しかないだろうが。
「……イエスだ」
口をへの字に曲げたハドラーが観念したように答えると、アバンはまるで弟子に話しかけるように「はい。よく出来ましたね」とにっこり笑い、ハドラーの身体を抱き起こした。
元勇者と元魔王、人間と魔族、光と闇、対極にある二人だったがまるで磁石のS極とN極のように強く惹かれ、お互いを求めるまでさほど時間はかからなかった。
なんでもない平凡で穏やかな日常が、ずっと続くと思っていた。
アバンと共に命尽きるその日まで。
◇
ハドラーを蘇らせるために、相当な寿命を使ってしまったのだろうか。
アバンは自分の死期を悟っていた。アバンの一部を取り込み蘇ったハドラーにもその感覚は分かった。
術者である私の命が尽きるとき、あなたの命も尽きます、とアバンは確かにそう言っていた。はずなのに。どうしてか、ハドラー自身には死の兆候がなかった。
一体どういうことなんだ?
「もしかしてパーフェクトに蘇生しちゃったんですかねぇ? 私ってやっぱり天才でしたか、ははっ」
いやぁ、まいったといわんばかりにカラカラ笑っている。
「勝手に蘇らせておいて先に逝くヤツがおるか」
お前のいないこの世界に未練などない。オレもすぐに後を追う、そう言いかけて、
「自ら命を絶つなんてこと、絶対やめてくださいね?」
先手を打たれた。
「あなたの中には私の一部が入ってるんですよ。謂わば一心同体なんです。大丈夫ですよ。私はずっとあなたの中に居るんですから、そんな怖い顔しないでください。ね?」
アバンは、ギリっと奥歯を噛みしめ険しい顔をしているハドラーを覗き込むようにし、銀糸のような髪をするりと耳にかけ優しく頬を撫でた。
「ねぇ、ハドラー、私の代わりに見届けて。この世界の行く末を。私の愛した地上の未来を」
まるで幼い子供に言い聞かせるようにアバンは微笑みかけたが、ハドラーの視界は暗いままだった。
――オレにはお前のいない未来が見えん。
「闘って死ぬことなど、別に怖くなかった。でも今は死ぬことが……ハドラー、あなたのいない世界に行くのが怖くてたまらない」
自分の死を悟ってからというもの、いつも以上に明るく振る舞うアバンがある夜に零した本音だった。
日に日に小さくなっていく命の灯を感じながら、ただ抱き合うことしかできずにいた。
「あなたを残して逝くのはつらいです」
アバンは困ったように眉をひそめて、でも口だけは無理矢理笑うように弧を描いた。
オレを置いていくな。アバン。
ハドラーの声は声にはならなかった。
アバンの細い肩をきつく抱きすくめると、アバンもハドラーの背に手を回して力を込めた。
「このままふたり溶け合って、明日の朝になったらひとつになってませんか……ね」
ハドラーは祈った。この男を死なせないでくれ、と。
人間の神に祈るのはこれが二度目だ。だが、オレにも分かったことがある。
――奇跡はそう何度も起こらない。
アバンがいなくなる。大切な人を失うことは、こんなにも辛い。
魔王として破壊の限りを尽くし、散々命を奪った人々にも皆、大切な人はいたはずで。
何度も神に祈るなんてのは虫がよすぎる話だ。
そんなことは、わかっている。
「最後の最期まで、手を握っていてくださいね。色々ありましたけど、あなたに出会えてよかった。ハドラー、ねぇ笑って。最後にあなたの笑顔、この瞳に焼き付けたいんです」
そう言って柔らかく笑うアバンに言われるがままやってみたが、うまく笑えてたのかどうか自分ではわからない。
わかるのは、オレの顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃだということだけ。
「アバン……」
「ふふ、ありがとう。ハドラー」
静かに微笑んで、そのままゆっくりと目を閉じた。
眠っているかのように見えたが、アバンが再び目を覚ますことはなかった。
ハドラーはアバンの手を両手で握りしめたまま、咆哮をあげた。
◇
「うわっ、いたのかよ」
突然パッと周りが明るくなったことに驚いて後ろを振り向くと、背後にポップが立っていた。
どれくらいの時間が経ったのかわからないが辺りはすっかり暗くなっていて、訪ねてきたポップに「明かりくらい点けろよな」と言われるまで、家に入ってきたことすら気付かなかった。
「……った」
「え?何だって?」
「アバンが逝った」
「……そっか」
ポップはベッドに近づくと、横たわるアバンを見つめ目を細めた。
「先生、眠ってるみたいだな」
アバンの亡骸を前に以外と冷静なポップに向かって、お前はもっと取り乱すと思っていたぞ、というと、
「オレもそう思ってたよ。でもなんか先生幸せそうでさ、なんか妙に納得したようなよくわかんないような、不思議な気持ちだよ」
まだ実感湧かないだけかもな、と鼻の頭を掻いた。
アバンたっての希望で葬儀は小さな教会でしめやかに執り行われた。弟子たちがかわるがわる白い棺に色とりどりの花を手向けている。
出棺の前にポップが気を遣って、先生とハドラーふたりだけにしてやってくれないかと周りに頼んでくれていた。
自分のことはてんで鈍いくせに、昔から人のことになると相変わらずよく気の付く奴だと感心する。
棺に横たわるアバンはいつもと変わらず綺麗な顔をしていて、眺めていると本当にただ眠っているだけのような気がしてきた。
「アバン、起きろ」
そろりと白い頬を撫でる。
いつだったか城の祝い事でしこたま飲んで帰った翌朝、珍しく寝起きの悪いアバンを起こしに行ったとき「おはようのキスしてくれたら起きますよぉ」と、んーと唇を突き出されたことがある。
あのときは「そんな恥ずかしいマネできるかっ!」とアバンを米俵のように担ぎ居間へと運んだのだった。もーっ照れ屋さんですねぇとクスクス笑っていたアバンのことを昨日のことのように思い出す。
「なぁ、起きてくれ」
オレはアバンにそっと口付けた。
「キスしたら起きるんだろ……」
もう一度、ゆっくりと唇を重ね合わせた。
「目を開けてくれ……アバン……」
アバンが目を開けることはなかった。
白い顔にポタポタと雫が落ち、いくつもの水玉模様を作る。
ハドラーの喉がひゅっと鳴った。
次の瞬間。
「うっ……くっ……」
突然息ができなくなった。
「ハドラー!どうした?」
あまりに苦さにもがいていると、異変に気付いたポップがバンと扉を開けて駆け寄ってきた。
「過呼吸だっ」
ポップは懐から薬草の袋を取り出し、大急ぎで中身を振って出しハドラーの口へ袋を当てる。
「ゆっくり息を吐いてから吸うんだ。そう、ゆっくり」
吸って吐いてを何度か繰り返し、なんとか呼吸を整えたハドラーが口を開いた。
「教えてくれ、ポップ」
ハドラーは大きな体を小さく屈め、肩で大きく息をしている。
「呼吸の仕方すらわからなくなるとは。オレはいつからこんな弱い奴になったんだ」
目に涙を溜めてそう尋ねる元魔王のことをこの青年はどう思っているのだろうか。
「オレさぁ31歳になったんだ。大戦の時の先生と同じ歳なんだぜ。あの時の先生って大人で、強くて、優しくて。なのにさぁ、オレ、この歳になってもびっくりするくらいガキのままなんだよ。やっぱ先生ってすげーんだなって思ったよ。その先生が選んだのがアンタだろ!」
ハドラーの背中をバシッと叩いた。
「思いっきり泣いていいんだぜ、ハドラー。ここにはオレとアンタしかいないからさ」
ポップは背中を丸めてしゃがんだままのハドラーの背に寄りかかり、オレはアンタの泣き顔なんてとうの昔に知ってるしな。ニヒヒと意地悪く笑う。
「鼻タレ小僧が生意気言うな」
「うるせー、鼻水はハドラーの専売特許じゃないんだぜ?」
肩をすくめ、三十路に向かって小僧とか言うなよなーと口を尖らせているポップも、いつのまにやら涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「みんな、みんな、先生のことが大好きだったんだ」
大の男が二人して声をあげてわんわん泣いた。
傍から見たらなかなかシュールな光景だ。
これを見てアバンもあらあら、ふたりとも泣き虫ですねぇ、なんて笑ってくれたらいいなと思った。
◇
葬儀から数日はアバンの弟子たちが代わる代わる家にやってきては、何かと世話を焼きにきてくれた。
調理しなくてもすぐに食べられる物を差し入れてくれたり、手合わせしてくれとせがんだり、用もないのに勝手にやってきては居間でお茶会を始める女たちもいた。
そのおかげか寂しさを感じる間もなく、お前たちはホントやかましいなと軽口を叩けるくらいに素直に有難いと思えた。
しばらくするとみな自分たちの生活に戻っていったが、ハドラーは未だにアバンのいない生活に慣れてはいなかった。
茶でも飲むかと鍋を火にかけたが、茶筒が空だ。茶葉のストックがとこにあるのか、わからない。吊戸棚や納戸を探してみたが見当たらなかったので、仕方なく白湯を飲んだ。
特段腹は減ってなかったが、とりあえず飯を作ってみることにした。目玉焼きと野菜のスープ。
これまでと同じ材料・道具を使い、同じ調理法のはずだがあまり美味くはない。あいつが作ったものなら、やれ黄身に火を通しすぎだとか、もうちょっと味付けを濃くしろだとか色々文句も言えたのだが、自分が作ったのではぼやくことしかできない。
オレが持っていても役に立たん、と形見分けで弟子たちに色々持っていってもらったため、家にあるアバンの物は少なく、残っていたのは流しの歯ブラシ、クローゼットの服、家事をするときに着けていたエプロンくらいだった。
「えっ! 歯磨きしたことないんですか? 魔族は虫歯にならないんですかねぇ」魔族の口内環境と虫歯菌との因果関係がとても気になりますねぇ。ぶつぶつ独り言を言ったかと思うと、「虫歯にならいとしても、エチケットですから! あなたも歯を磨いてくださいね。あ、もしかして磨き方がわからないとか? じゃあわたしがやってあげますから、はい、あーんして?」拒否しようものなら歯ブラシでアバストされそうな勢いだったので、大人しく口を開けた。
「自分で脱ぎますから! ボタン引きちぎるのやめてくれません?」むすっとした顔のアバンと目が合った。脱がせたいのだと言うと「じゃあボタンは一個ずつ外してくださいよ。繕うの大変なんですから!」わかったが……じれったいな。「焦らなくても夜は長いですから……」細い指先でオレの顎をなぞるアバンの色を含んだ仕草に、やはり我慢ができずボタンは飛んだ。「こらっ!ハド……んっ……」言い終わらないうちに口を塞いでしまえば、文句がすぐに甘い声に変わるのはいつものことだった。
紐が解けているぞ、と背後から声を掛ける「今手が離せないんで結んでもらえませんか?」アバンは洗い物をしながら顔だけこちらを向けた。エプロンの紐に手を延ばし蝶結びにする。「ありがとうございます、ハドラー。以外に手先が器用ですよね、あなたって。服のボタンは引きちぎっちゃうくせに」こやつ……相当根に持ってるな。
静まり返った家でハドラーは、生活の中にアバンがいた痕跡を見つけては目尻が涙で滲んでいる。これまでポップのことを散々泣き虫だとからかってきたくせにだ。
レオナ姫が人間用の中では一番大きいサイズのものを贈ってくださったんですよ、とアバンが言っていた、二人で暮らす粗末な家には不釣り合いなキングサイズのベッド。それでも男二人で寝るには狭かったのだが。寝相の悪いアバンから肘をくらいながら、窮屈でかなわんと文句を言いつつ、狭いベッドにひしめき合って眠るのは存外悪くなかった。
ひとり大の字になって寝てみるとわかる。
案外広かったんだな、このベッド。
ぽすっと枕に顔を埋めるとアバンの匂いがする。
目を瞑ればすぐ隣にいるような気がして思わず伸ばした手が空を切る。
ついこの間まで、確かにここにいたのに。何度も身体を重ね合わせたあいつはもういない。
「んっ、ぁ……ハドラー……、ハドラーぁ」
気持ちいいと伝えたいのか恥ずかしそうに目を伏せて、何度もオレの名を呼ぶアバンの声が好きだった。
乱れた空色の髪の匂い、
絡ませた舌の熱さ、
目に溜めた涙の甘さ、
重ねた肌の汗ばんだ感触、
オレを迎い入れる胎内の柔らかさ、
まだ、こんなにも……覚えている。
オレはいつか忘れてしまうのだろうか。
アバンのぬくもりを。
アバンと過ごした日々が無くなるわけではないのはわかっている。が、オレはアバンを想い出になどしたくはない。
――女々しいな。
元魔王が聞いてあきれる。
夜とはこんなにも長いものだったか?
はぁっと深く溜息をついたハドラーは、今日もひとり眠れぬ夜を過ごす。
◇
「ダイ!大丈夫か?」
「ポップ!大変なんだよ!」
知らせを受け、急いでダイの元へ向かった。
ダイの話によると、ハドラーと共に魔界でのならず者討伐の依頼を終え帰還する途中、とある奥地に黒魔晶があるという噂を聞きつけ、捜索に向かったのだという。
黒魔晶というのは魔力を無尽蔵に吸収する石のことだ。これを原材料とし、呪術で加工した爆弾が黒の核晶だ。
大魔王バーンによってハドラーの体内に埋め込まれた核晶をドルオーラで抑え込んだバランは絶命。爆発寸前のキルバーンの人形を抱えて空へ飛び、一人地上から消えたダイ。皆で何年も捜索し、やっと見つけたのは数年前のことだ。
ダイとハドラーにとって因縁の黒の核晶。
黒魔晶がこの一帯にのみ存在するものなのかは定かではないが、少なくともこれらを破壊すればその分新たな黒の核晶は造られることはないのだ。二人の意見は「黒魔晶破壊」の一択だった。
討伐後で多少体力が落ちているとはいえ、石の破壊などダイとハドラーの力では造作もないことで。
ただそこで呪術師と居合わせたのが誤算だった。
加工するための石を採掘に来ていたのだろう。一帯の石を破壊されるのを恐れ、なんとか阻止しようとありったけの魔法力を黒魔晶に込めて攻撃してきたのだ。
幸い、一瞬で魔法力を込めただけの黒魔晶には黒の核晶ほどの威力はなかった。それでも黒の核晶を精製できるほどの呪術師だ。相当の魔力の持ち主だったらしい。致命傷を負った二人は瀕死の状態でなんとかキメラの翼を使い、地上へ戻ってきたのだ。
「ダイ、お前の怪我はどうなんだ?」
「ハドラーが庇ってくれたんだ。レオナに回復呪文ベホマかけてもらったし、オレは大丈夫」
「そうか。ならよかった」
ポップはほっと胸をなで下ろした。
「でもハドラーがどこかへ行っちゃったんだ。まだ止血もしてないのに。オレよりもずっとひどい傷だったのにレオナにダイオレを優先してくれって……」
ダイもすでに20代後半になっているが、どうしようポップ、と泣きそうになっている姿は一緒に冒険を始めたばかりのあの頃を彷彿とさせた。
「ハドラーはオレが探すから。ダイ、お前は休んでろ」
「オレも一緒に行くよ!」
「ダメだ。ちゃんと完全回復しとけ。姫さんに心配かけるな」
「……わかったよポップ」
ついて来ようとするダイをなんとか宥め、ポップは尋ねた。
「ハドラーの奴、なんか言ってたか?」
えーと……としばらく考えていたダイがぽつりと呟いた。
「これなら奴に叱られずに済むかな……って言ってた気がする」
◇
オレはすぐさまハドラーを探した。
といっても、ハドラーの行きそうなところなんていくつもない。
ハドラーはすぐに見つかった。
確かにひどいダメージを受けたと聞いたが、すぐに回復呪文をかければ一命をとりとめることはできたかもしれないのに。
でもアンタはそれを望まなかった。
体中の血がすべて流れ出るまで、かなりの時間を要したはずなんだ。
段々と冷たくなり、固まる身体。
二つの心臓が順に止まるその瞬間まで、相当な痛みがあったはずなんだ。
苦しかったに違いないんだ。
でも笑ってたんだ。
先生を抱きしめるように墓石を抱きかかえ、幼い子どものように背中を丸めて横たわっていた。
手には空色の花を握り締めて。
まるでいい夢でも見てるかのように微笑んでた。
ハドラーからは生前、オレの遺灰はよく晴れた日にアバンの眠る丘の上から撒いてくれと頼まれていた。
「なに言ってんだよ。冗談やめろよ」
そのときは、縁起でもねぇ、とぶっきらぼうに返事をしたがあれは本気だったんだ。
「まだ……ダメか……」
魔界での討伐依頼の後に俯き呟くハドラーの姿を何度も見かけたことがある。
先生の言いつけを守って自死を選ぶことはしなかったハドラーだが、本当はずっと死にたがっていたんだ。
一刻も早く先生の元に行きたくて。
「じゃあな、ハドラー」
アバンの墓石の前に立ち、ポップは遺灰の入った袋に声を掛けた。
袋を逆さにし、遺灰をさらさらと掌に落とす。
それはキラキラと舞い上がり、辺り一面を銀色に輝かせたあと、ふわりと風に乗って青い空に消えた。
――先生によろしくな。
15のあなたへ~Dear mineシリーズ後編~ #ハドアバ
15のあなたへ~Dear mineシリーズ後編~ #ハドアバ
武人ハドラー×大勇者アバン
大戦後のアバンが勇者時代の自分へ宛てた手紙。
ひょんなことから勇者時代の自分からの手紙の内容を知ることになり、大戦後のアバンが過去の自分へ想いを綴ります。
Dear mineシリーズ後編です。
前編をまだお読みでない方はこちらから→『未来の私へ~Dear mineシリーズ前編~ 』
※アンジェラ・アキさんの『手紙~拝啓 十五の君へ~』からイメージしたお話ですので、この曲に思い入れのある方は閲覧ご注意ください。
--------------------
『拝啓 ありがとう。あなたに伝えたいことがあるんです』
風が吹いている。
マントがはためき空色の髪が揺れる。
丘の上に立つ私の目の前には、あのときと同じ澄んだ青空が広がっている。
◇
石畳の上を一人の老婆が歩いていた。
どんよりとした分厚い雲に覆われた空の下だったが、老婆の心は晴れやかだった。
老婆は占い師であった。
病弱なせいでなかなか子供のできず悩んでいる娘がここ数年以内に命を授かるという吉兆が出たのだ。
居ても立っても居られず、娘のために何か滋養のあるものをと、湖のほとりにある貧しい国からはるばる街へ出て来たのだった。
知り合いの骨董屋へ赴き、自身で研磨した御守り用の石や魔除けの数珠などを質に出した。
そのお金で干し肉や乳製品、スパイスなど自国では普段あまり手に入らない食材をしこたま買い揃えた。
買い物を終え乗合馬車の待つ場所へ向かう途中、ぽつぽつと降りだした雨が石畳に水玉模様を描く。
「もう降り出したか」
今朝の占いではもう少しもつはずだったのだがな、と急に強まる雨脚に愚痴をこぼすと、老婆は雨に濡れないよう荷物をローブの中に入れ、抱きかかえるように持ち直した。
近道である教会の横の路地を通り過ぎようとしたそのときだった。
街灯が無く薄暗い道の先に淡く光るものが目に留まった。
よく見るとそれは紙飛行機だった。
手に取ってみると僅かだが、魔法力が感じられる。
開いてみるとどうやら手紙のようだ。
雨に濡れてはいたものの紙自体はよれたり破れたりはしていなかったが、耐水性のインクではなかったようで文字は滲んでいて読むことができなかった。
何の変哲もない手紙のようだが、老婆はなぜだか無性に気になった。
差出人か宛先を水晶玉で占ってみようか?
いや、乗合馬車の時間が迫っている。そんな時間はない。
老婆はふと骨董屋の主人からもらったものを思い出した。
「面白いアイテムがあるんだよ。文字を書いた紙を燃やした灰を入れて貝殻を耳に当てると、書いた本人の声で再生されるらしいんだ。質流れ品なんだけど、1回使うと壊れちゃうからあんまり売れなくってさ。お孫さん産まれたら使ってみたらどう?ま、言葉がわかるようになるのは何年も先だろうけどねぇ。ははは」
おまけとして付けておくよと渡された巻貝の殻とマッチ。
なぜ手紙をわざわざ紙飛行機にして飛ばしたのか?
差出人の真意は老婆にはわからなかったが、思念の残るその手紙を燃やした灰を貝殻へと移した。
「急がないと馬車に乗り遅れるわい」
老婆はよっこらせと荷物を抱え直すと、まだ見ぬ孫に思いを馳せ家路に着いた。
◇
アバンは街の教会にいた。
シスターから講演の依頼があったのだ。
講演といっても、異種族間のコミュニケーションについて子供たちにわかりやすく話をするという道徳の授業みたいなものだ。
大戦後、人間と魔族が共存する道をカールやパプニカをはじめ各国で模索し始め、たびたびこういった催しが行われる。
魔族であるハドラーと共に暮らすアバンは人当たりの良さもあってか講師としてはうってつけの人物であり、よく声がかかるのだった。
「何かほかにお手伝いすることはありますか?」
講演を終えたアバンはシスターに声をかけた。
「そうねえ……」
シスターは数秒考えた後、手のひらをぽんと叩いた。
「あ、そうだわ!」
一度教会の表玄関から出て、横の路地に入るとたしかに裏口はあった。
建付けが悪く、もう何年も使われていない裏口の扉を直して欲しいのだという。
「んー、蝶番が錆びてますね。あ、こっちの金物は歪んでます」
ぶつぶつと独り言を言いながら扉を点検していると、扉のすぐそばにあるニッチが目に入った。
何の植物かわからないがすっかり枯れてしまっている小さな鉢植えの横に、貝殻が飾ってあるのが見えた。
魂の貝殻に似ているが、一回りほど小さい。
ジニュアール家の書庫にある図鑑で見たものとデザインも異なるようだ。
以前マァムに聞いたことがある。
魂の貝殻はヒュンケルの父バルトスが絶命の瞬間にメッセージを残したアイテムだ。
それは死にゆく者の魂の声を込めるられるものだったが、これも似たような性質のものなのだろうか。
恐る恐る耳に当ててみる。
――この手紙を読んでいる貴方は、今どこで何をしているのでしょうか。
「!?」
私の声だ。
今よりずっと若いが、確かに私の声。
――ねぇ、私は一体どうしたらいいですか?
思い出した。
これは私の書いた手紙だ。
随分と昔に未来の自分へ宛てた手紙。
紙飛行機にして丘の上から飛ばしたはずだった。
それが一体なぜこの貝殻に?
――お願いです助けてください。
悲痛な叫びが聞こえる。
あの頃の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
◇
幼い頃から己の感情を心の奥に隠すことは得意なほうだと思っていた。
笑顔のポーカーフェイスもお手のものだと。
気象学で得た知識を良かれと思い披露したが結果的に民衆に敬遠された祖父のこともあり、自分の知識や能力を表に出すことは禁忌だと幼いながらに気付いていた。
カール王国から距離を置いたジニュアール家には自分のほかに子供はおらず、いつも一人で過ごしていた。
私にとっての友達は書架の本たちだった。
本はいろんなことを私に教えてくれたが、当然、私に話しかけてくれることはなかった。
フローラ王女を助けたのをきっかけに騎士団に入ってからは、ロカがなにかと気にかけ話しかけてくれた。
城の侍女たちとも笑顔で話し、うまくやれていたはずだった。
見えない壁を壁と捉えられないよう、巧妙に隠しながら。
あまり目立つことのないよう、当たり障りなく暮らしていた。
あの人ハドラーに、会うまでは。
勇者となった私の笑顔の仮面を無理矢理剥がし、心をこじ開けて入ってきたのがハドラーだった。
黒曜石の瞳で射るように見つめられ、求められ、心が躍った。
されている行為自体は決して褒められたものではないが、どんな形であれ自分を熱望されたのが純粋に嬉しかった。
まるで自分の存在を認められたような気がして。
だが、魔王を好きになってしまった私が「勇者である前に一人の人間なんです」などと、
そんなことを言えるはずもなく。
ロカやレイラはともかく、マトリフはきっと薄々気づいていたんじゃないかと思う。
「なぁ、アバン」と呼びかけられて、「いや、なんでもない」と続くことが度々あった。
私が何も言わなかったから、何も訊かないでいてくれていたのだ。
それが彼の優しさだと今ならわかる。
当時の私にはそれがわからなくて。
誰にも言えず、悩んでいた。
子供だったのだ。自分で思うよりずっと。
15の私が泣いている。小さな身体を震わせて。
世界の安寧と、自分の想いを天秤にかけて。
どうすればいいかなんて、本当は分かっていた。
――魔王を討つ。
ただそれだけ。
そこに、私の私情を挟む余地などない。
今の私なら、あのときの自分になんと言ってあげられるのだろうか。
間違っていてもいい。
あの人を好きなままでもいい。
きっとそう言って欲しかった。
ただ、気持ちを聞いて欲しかっただけ。
誰にも許してもらえないと思った。
それと同時に、あの人の熱を胎内に感じる刹那、
誰にも許されなくていいとも思った。
このまま時間ときが止まればいい。
あの人に抱かれる度にそんなことを考える自分自身が許せなかった。
どれほど自分を責めたかわからない。
たくさん悩んで、いっぱい泣いて、ひたすら前に進み、
そして今の自分がある。
私は、15の私を抱きしめる。
よくがんばりましたね。
――私があなたを赦します。
◇
「先生、どうかしましたか?」
声をかけられはっと気付くと、なかなか戻ってこないのを心配したのか、様子を見に来たシスターが駆け寄ってきた。
「どこかお怪我でも?」
そこではじめて自分が泣いていたことに気づく。
耳に当てていた貝殻は細かく砕けて砂となり、指の間からさらさらと零れ落ちていった。
「大丈夫です。埃が目に入っちゃって」
パッパッと手についた砂を払い、眼鏡を外しハンカチで涙を拭う。
「扉、直りそうですか?」
「はい。蝶番や金物を取り換えて油を点せば直りますよ」
「よかったわ。男手がなくってね、なかなか修理できなかったから助かります。終わったら休憩室にいらして。お茶を用意しておきますわ」
「ありがとうございます」
アバンはパタパタと足音を立て表玄関へ向かうシスターの後ろ姿をしばし見つめていた。
◇
ハドラーが過去にしてきたことは許されることではないが、彼はもう我々にとって脅威ではない、とダイ捜索の手段の一つとして皆を説得し、アバンはハドラーを禁呪法で復活させた。
紆余曲折を経て武人となったハドラーを加え、総当たりで地上・魔界を捜索し、無事にダイを救出することができたのだった。
対外的には監視の名目で元魔王と元勇者は街外れの小さな小屋で同居生活をすることになった。
アバンとハドラーにお互い好意があることは周知の事実であったが、当の本人たちはなかなか距離感を掴めないまま今日に至っている。
夕食の片づけを終えたアバンはエプロンの背中にある蝶結びを外しながら、寝室で読書をしていたハドラーの元へ向かう。
「今日ね、不思議な出来事があったんです」
「何だ」
ハドラーが腰かけているのは、レオナ姫から贈られた、小さな寝室に不釣り合いなほど大きい特注サイズのベッドだ。
煌びやかな装飾が施されたベッドは分不相応だと辞退したのだが、お金に困ったら売っちゃえばいいのよ!パプニカの装飾品は高く買い取ってもらえますから!それに普通のベッドじゃサイズが合わないでしょう、と半ば強引にプレゼントされたものだった。
確かに大柄で重量のあるハドラーが横になり寝がえりをうっても軋まない頑丈な代物で、とても有難く使わせてもらっている。
「昔の私から手紙をもらいました」
「どういう意味だ?」
アバンはエプロンを畳んでベッドサイドの椅子の背にかけハドラーの隣に座ると、昼間に教会で見つけた不思議な貝殻について話をした。
「あのときのあなたって、本当にひどかったですよねぇ」
アバンはそう呟くと、片手を頬に当てふうっとこれみよがしな溜息をついた。
「む……昔のことは覚えておらん」
「えーっ!覚えてないって……」
あんなことしておいて !?近くにあった枕でバフバフと叩き捲くし立てると、ハドラーは両腕で枕攻撃をガードしながら少しバツの悪そうな顔をした。
「人聞きの悪いことを言うな」
「だってそうでしょう?私、はじめてだったんですよ。口づけするのも、交わるのも、誰かを好きになったのも。何もかも……あなたがはじめてだったんです」
まだ色を知らない無垢な少年に快楽を植え付けたのは、紛れもなくハドラーで。
俯くアバンの頬に伏せたまつ毛の長い影が落ち、サイドテーブルのランプの灯でゆらゆらと揺れた。
「あ、そういえば心中しようとしたのもはじめてでしたね」
ぱっと顔を上げ、先ほどとは打って変わった様子で凍れる時間の秘法でしょ、メガンテでしょ、と指折り数える仕草をしているアバンをハドラーは苦虫を嚙み潰したような顔で見ている。
「あなたと共に生きたかったし、それができないのなら共に死にたい。そう思ってたんですよね。ふふっ、真面目ですよね私って」
うーんと両腕を上に挙げ、伸びをしながらアバンは笑う。
「あなたのはじめてももらわないと割りに合わないですよねぇ」
「勇者のくせに損得勘定で話をするのはいかがなものか」
「元、勇者です」
元魔王に説教なんかされたくありませんよ、と元勇者は頬を膨らませた。
「オレは人間によって禁呪法で蘇ったのははじめてだが」
「そんな奇特な人、私以外にいてたまりますか」
「自分が奇特だという自覚はあるんだな」
「どういう意味ですか、それ」
さも心外だと言わんばかりにアバンはハドラーを横目で睨み付けた。
「世界オレのものを半分くれてやるから配下になれと言っているのに、そこまでして手に入れたいと思っているのにだ、おまえは全くなびかなくて。何がなんでも自分のモノにしたかった。あの時は力づくで屈服させることが全てだったんだ。オレも若かったなぁ」
「何が若かったなー、ですか!もうっ」
やっぱり覚えてるんじゃないですかぁ、と再びバフバフと叩き始めた私から枕を奪い取ると、私の頭の後ろに回し、そのままぽすっとベッドに押し倒した。
「じゃあ今はオレの下になる気はないか勇者サマ?」
ニッと口の端を上げ、尖った牙を私に見せた。
そのちょっと意地の悪そうな顔が、昔から好きなんですよね、私。
さらさらと落ちるハドラーの髪がアバンの頬をくすぐる。
「私、もう勇者じゃありません」
そんな口説き文句じゃイヤですよ? と拗ねたように上目遣いで銀糸のカーテンをくいっと引っ張り見つめると、ハドラーもこちらを見た。
一旦私から目を逸らすと黒目を左右に動かし、えーと、とか、その、とか言いながら何やら一生懸命に言葉を探していたが、少し困った顔をした後、再び私と目を合わせた。
「お前が欲しい。オレを受け入れてくれ」
これじゃだめか? と言うかのように訴えている伏せた耳がなんだかかわいくて、思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ……上出来です」
元魔王にしては、と続く言葉は最後まで言えず、重ねた唇の隙間からシーツの波間へ消えた。
◇
ハドラーは思ったより遥かに優しく私の身体を暴き、私の身体は自分でも驚くほどあっさりハドラーを迎え入れた。
私はハドラーの腕の中で二つの心音を聞きながら、心地よい疲労感に包まれている。
彼を変えたのが私の教え子たちだということが、何より誇らしくて。
彼を変えたのは私ではないという事実が、何より悔しい。
私の青春はすべてあの時代に注ぎ込んだといっても過言ではない。
狂おしいほどの情熱をぶつけあった魔王と勇者だった頃の二人は、分かり合えないまま延々と続く平行線だと思っていたが、ほんの少し角度がつくだけでいつかは交わることができるものだったのだ。
人は変われる。
それは魔族であっても同じこと。
私にはハドラーを変えることはできなかった。
もしもあのとき交差することができたのなら、今とは違う未来があったのだろうか。
いや、考えるのはよそう。過去には戻れない。
あのときがあったからこそ、今こうして一緒にいられるのだから。
「アバン……痛むか?」
頭上からハドラーの少し心配そうな声がする。
「平気です」
あら優しいですねぇとアバンは額をぐりぐりとハドラーの胸に擦り付ける。
やめんか、と言いつつ全然嫌そうではない態度に思わず顔が綻ぶ。
顔を上げるといつになく真剣な面持ちのハドラーと目が合った。
「オレはもうお前を傷つけたくないんだ」
「一緒に暮らし始めてからずっと、爪短くしてくれてるの、気づいてましたよ」
「違う、そうじゃない、いや違わんな、それもそうなんだが、その、物理的な意味ではなくてな」
いかつい風貌の男が慌てふためく姿がなんともかわいい。
「わかってますよぉ」
アバンはふふふと笑いながらハドラーの太い首に手を回して顔を引き寄せると、ちょんと鼻先に口づけた。
「ありがとうハドラー」
ちょっぴり苦い感情を抱きつつも、アバンはハドラーの逞しい腕の中でとびきり甘い朝を迎えたのだった。
◇
そよ風に揺れて草木が薫る。
私はハドラーと共にあのときの丘の上に立っている。
15の自分に宛てた手紙を携えて。
二人の目の前には見渡す限りの青空が広がり、遠くの空では渡り鳥がV字に列をなして飛んでいる。
上空の風が強く吹いているのだろう、雲の流れが早い。
「以前もね、こうして手紙を飛ばしたんですよ」
そう言って紙飛行機を飛ばそうと手を振り上げたその瞬間、突如吹き荒れた旋風に驚き目を瞑った。
その瞬間、ハドラーが身を屈めて自身のマントの中に私を引き入れていた。
「大丈夫か?アバン」
「ええ。ありがとうございます。ハドラー」
アバンはしゃがんだままマントから顔だけを出すと、ズレた眼鏡をかけ直し辺りを見回す。
旋風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまったのか、紙飛行機はすでに見当たらなかった。
アバンは膝を抱えるように座り、どかっと胡坐をかいて隣に座るハドラーの横顔を眺めていた。
陽の光を受けた銀髪が風になびいてきらきらと光る。
「きれいですね」
思わず口をついて出た。
「何がだ?」
「あなたが」
「オレが?意味が分からん。お前のほうがよっぽど……」
「よっぽど?」
「……」
「照れてないでちゃんと言ってくださいよぉ」
ねぇねぇとハドラーにしなだれかかるように体重をかけた。
「うるさい!用が済んだならもう行くぞ」
「えっ、ちょっと待ってくださいっ」
照れ隠しからか急に立とうとするハドラーにもたれかかっていたアバンは体勢を崩しそうになり、慌ててハドラーの腕に掴まると、ハドラーはそのままアバンの腰に手を回し抱き寄せながら立ち上がった。
「帰りましょうか」
「ああ」
アバンがハドラーを見つめにっこりと微笑むと、ハドラーもまたアバンを見つめて頷き、その肩をぎゅっと抱いた。
アバンは頭の中に二人の暮らす家を思い描くと、ルーラを唱えた。
今、私は幸せです。
愛する人の隣にいます。
だから泣かないで。
あなたの願いはきっと叶います。
未来の私が言うんだから間違いありませんよ。
さあ、笑って。
笑顔を見せて。
あなたの未来は、きっと、
――銀色に輝いている。
この手紙が、私の声が、
時空ときを超えて、
あなたのもとに届きますように。
武人ハドラー×大勇者アバン
大戦後のアバンが勇者時代の自分へ宛てた手紙。
ひょんなことから勇者時代の自分からの手紙の内容を知ることになり、大戦後のアバンが過去の自分へ想いを綴ります。
Dear mineシリーズ後編です。
前編をまだお読みでない方はこちらから→『未来の私へ~Dear mineシリーズ前編~ 』
※アンジェラ・アキさんの『手紙~拝啓 十五の君へ~』からイメージしたお話ですので、この曲に思い入れのある方は閲覧ご注意ください。
--------------------
『拝啓 ありがとう。あなたに伝えたいことがあるんです』
風が吹いている。
マントがはためき空色の髪が揺れる。
丘の上に立つ私の目の前には、あのときと同じ澄んだ青空が広がっている。
◇
石畳の上を一人の老婆が歩いていた。
どんよりとした分厚い雲に覆われた空の下だったが、老婆の心は晴れやかだった。
老婆は占い師であった。
病弱なせいでなかなか子供のできず悩んでいる娘がここ数年以内に命を授かるという吉兆が出たのだ。
居ても立っても居られず、娘のために何か滋養のあるものをと、湖のほとりにある貧しい国からはるばる街へ出て来たのだった。
知り合いの骨董屋へ赴き、自身で研磨した御守り用の石や魔除けの数珠などを質に出した。
そのお金で干し肉や乳製品、スパイスなど自国では普段あまり手に入らない食材をしこたま買い揃えた。
買い物を終え乗合馬車の待つ場所へ向かう途中、ぽつぽつと降りだした雨が石畳に水玉模様を描く。
「もう降り出したか」
今朝の占いではもう少しもつはずだったのだがな、と急に強まる雨脚に愚痴をこぼすと、老婆は雨に濡れないよう荷物をローブの中に入れ、抱きかかえるように持ち直した。
近道である教会の横の路地を通り過ぎようとしたそのときだった。
街灯が無く薄暗い道の先に淡く光るものが目に留まった。
よく見るとそれは紙飛行機だった。
手に取ってみると僅かだが、魔法力が感じられる。
開いてみるとどうやら手紙のようだ。
雨に濡れてはいたものの紙自体はよれたり破れたりはしていなかったが、耐水性のインクではなかったようで文字は滲んでいて読むことができなかった。
何の変哲もない手紙のようだが、老婆はなぜだか無性に気になった。
差出人か宛先を水晶玉で占ってみようか?
いや、乗合馬車の時間が迫っている。そんな時間はない。
老婆はふと骨董屋の主人からもらったものを思い出した。
「面白いアイテムがあるんだよ。文字を書いた紙を燃やした灰を入れて貝殻を耳に当てると、書いた本人の声で再生されるらしいんだ。質流れ品なんだけど、1回使うと壊れちゃうからあんまり売れなくってさ。お孫さん産まれたら使ってみたらどう?ま、言葉がわかるようになるのは何年も先だろうけどねぇ。ははは」
おまけとして付けておくよと渡された巻貝の殻とマッチ。
なぜ手紙をわざわざ紙飛行機にして飛ばしたのか?
差出人の真意は老婆にはわからなかったが、思念の残るその手紙を燃やした灰を貝殻へと移した。
「急がないと馬車に乗り遅れるわい」
老婆はよっこらせと荷物を抱え直すと、まだ見ぬ孫に思いを馳せ家路に着いた。
◇
アバンは街の教会にいた。
シスターから講演の依頼があったのだ。
講演といっても、異種族間のコミュニケーションについて子供たちにわかりやすく話をするという道徳の授業みたいなものだ。
大戦後、人間と魔族が共存する道をカールやパプニカをはじめ各国で模索し始め、たびたびこういった催しが行われる。
魔族であるハドラーと共に暮らすアバンは人当たりの良さもあってか講師としてはうってつけの人物であり、よく声がかかるのだった。
「何かほかにお手伝いすることはありますか?」
講演を終えたアバンはシスターに声をかけた。
「そうねえ……」
シスターは数秒考えた後、手のひらをぽんと叩いた。
「あ、そうだわ!」
一度教会の表玄関から出て、横の路地に入るとたしかに裏口はあった。
建付けが悪く、もう何年も使われていない裏口の扉を直して欲しいのだという。
「んー、蝶番が錆びてますね。あ、こっちの金物は歪んでます」
ぶつぶつと独り言を言いながら扉を点検していると、扉のすぐそばにあるニッチが目に入った。
何の植物かわからないがすっかり枯れてしまっている小さな鉢植えの横に、貝殻が飾ってあるのが見えた。
魂の貝殻に似ているが、一回りほど小さい。
ジニュアール家の書庫にある図鑑で見たものとデザインも異なるようだ。
以前マァムに聞いたことがある。
魂の貝殻はヒュンケルの父バルトスが絶命の瞬間にメッセージを残したアイテムだ。
それは死にゆく者の魂の声を込めるられるものだったが、これも似たような性質のものなのだろうか。
恐る恐る耳に当ててみる。
――この手紙を読んでいる貴方は、今どこで何をしているのでしょうか。
「!?」
私の声だ。
今よりずっと若いが、確かに私の声。
――ねぇ、私は一体どうしたらいいですか?
思い出した。
これは私の書いた手紙だ。
随分と昔に未来の自分へ宛てた手紙。
紙飛行機にして丘の上から飛ばしたはずだった。
それが一体なぜこの貝殻に?
――お願いです助けてください。
悲痛な叫びが聞こえる。
あの頃の記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
◇
幼い頃から己の感情を心の奥に隠すことは得意なほうだと思っていた。
笑顔のポーカーフェイスもお手のものだと。
気象学で得た知識を良かれと思い披露したが結果的に民衆に敬遠された祖父のこともあり、自分の知識や能力を表に出すことは禁忌だと幼いながらに気付いていた。
カール王国から距離を置いたジニュアール家には自分のほかに子供はおらず、いつも一人で過ごしていた。
私にとっての友達は書架の本たちだった。
本はいろんなことを私に教えてくれたが、当然、私に話しかけてくれることはなかった。
フローラ王女を助けたのをきっかけに騎士団に入ってからは、ロカがなにかと気にかけ話しかけてくれた。
城の侍女たちとも笑顔で話し、うまくやれていたはずだった。
見えない壁を壁と捉えられないよう、巧妙に隠しながら。
あまり目立つことのないよう、当たり障りなく暮らしていた。
あの人ハドラーに、会うまでは。
勇者となった私の笑顔の仮面を無理矢理剥がし、心をこじ開けて入ってきたのがハドラーだった。
黒曜石の瞳で射るように見つめられ、求められ、心が躍った。
されている行為自体は決して褒められたものではないが、どんな形であれ自分を熱望されたのが純粋に嬉しかった。
まるで自分の存在を認められたような気がして。
だが、魔王を好きになってしまった私が「勇者である前に一人の人間なんです」などと、
そんなことを言えるはずもなく。
ロカやレイラはともかく、マトリフはきっと薄々気づいていたんじゃないかと思う。
「なぁ、アバン」と呼びかけられて、「いや、なんでもない」と続くことが度々あった。
私が何も言わなかったから、何も訊かないでいてくれていたのだ。
それが彼の優しさだと今ならわかる。
当時の私にはそれがわからなくて。
誰にも言えず、悩んでいた。
子供だったのだ。自分で思うよりずっと。
15の私が泣いている。小さな身体を震わせて。
世界の安寧と、自分の想いを天秤にかけて。
どうすればいいかなんて、本当は分かっていた。
――魔王を討つ。
ただそれだけ。
そこに、私の私情を挟む余地などない。
今の私なら、あのときの自分になんと言ってあげられるのだろうか。
間違っていてもいい。
あの人を好きなままでもいい。
きっとそう言って欲しかった。
ただ、気持ちを聞いて欲しかっただけ。
誰にも許してもらえないと思った。
それと同時に、あの人の熱を胎内に感じる刹那、
誰にも許されなくていいとも思った。
このまま時間ときが止まればいい。
あの人に抱かれる度にそんなことを考える自分自身が許せなかった。
どれほど自分を責めたかわからない。
たくさん悩んで、いっぱい泣いて、ひたすら前に進み、
そして今の自分がある。
私は、15の私を抱きしめる。
よくがんばりましたね。
――私があなたを赦します。
◇
「先生、どうかしましたか?」
声をかけられはっと気付くと、なかなか戻ってこないのを心配したのか、様子を見に来たシスターが駆け寄ってきた。
「どこかお怪我でも?」
そこではじめて自分が泣いていたことに気づく。
耳に当てていた貝殻は細かく砕けて砂となり、指の間からさらさらと零れ落ちていった。
「大丈夫です。埃が目に入っちゃって」
パッパッと手についた砂を払い、眼鏡を外しハンカチで涙を拭う。
「扉、直りそうですか?」
「はい。蝶番や金物を取り換えて油を点せば直りますよ」
「よかったわ。男手がなくってね、なかなか修理できなかったから助かります。終わったら休憩室にいらして。お茶を用意しておきますわ」
「ありがとうございます」
アバンはパタパタと足音を立て表玄関へ向かうシスターの後ろ姿をしばし見つめていた。
◇
ハドラーが過去にしてきたことは許されることではないが、彼はもう我々にとって脅威ではない、とダイ捜索の手段の一つとして皆を説得し、アバンはハドラーを禁呪法で復活させた。
紆余曲折を経て武人となったハドラーを加え、総当たりで地上・魔界を捜索し、無事にダイを救出することができたのだった。
対外的には監視の名目で元魔王と元勇者は街外れの小さな小屋で同居生活をすることになった。
アバンとハドラーにお互い好意があることは周知の事実であったが、当の本人たちはなかなか距離感を掴めないまま今日に至っている。
夕食の片づけを終えたアバンはエプロンの背中にある蝶結びを外しながら、寝室で読書をしていたハドラーの元へ向かう。
「今日ね、不思議な出来事があったんです」
「何だ」
ハドラーが腰かけているのは、レオナ姫から贈られた、小さな寝室に不釣り合いなほど大きい特注サイズのベッドだ。
煌びやかな装飾が施されたベッドは分不相応だと辞退したのだが、お金に困ったら売っちゃえばいいのよ!パプニカの装飾品は高く買い取ってもらえますから!それに普通のベッドじゃサイズが合わないでしょう、と半ば強引にプレゼントされたものだった。
確かに大柄で重量のあるハドラーが横になり寝がえりをうっても軋まない頑丈な代物で、とても有難く使わせてもらっている。
「昔の私から手紙をもらいました」
「どういう意味だ?」
アバンはエプロンを畳んでベッドサイドの椅子の背にかけハドラーの隣に座ると、昼間に教会で見つけた不思議な貝殻について話をした。
「あのときのあなたって、本当にひどかったですよねぇ」
アバンはそう呟くと、片手を頬に当てふうっとこれみよがしな溜息をついた。
「む……昔のことは覚えておらん」
「えーっ!覚えてないって……」
あんなことしておいて !?近くにあった枕でバフバフと叩き捲くし立てると、ハドラーは両腕で枕攻撃をガードしながら少しバツの悪そうな顔をした。
「人聞きの悪いことを言うな」
「だってそうでしょう?私、はじめてだったんですよ。口づけするのも、交わるのも、誰かを好きになったのも。何もかも……あなたがはじめてだったんです」
まだ色を知らない無垢な少年に快楽を植え付けたのは、紛れもなくハドラーで。
俯くアバンの頬に伏せたまつ毛の長い影が落ち、サイドテーブルのランプの灯でゆらゆらと揺れた。
「あ、そういえば心中しようとしたのもはじめてでしたね」
ぱっと顔を上げ、先ほどとは打って変わった様子で凍れる時間の秘法でしょ、メガンテでしょ、と指折り数える仕草をしているアバンをハドラーは苦虫を嚙み潰したような顔で見ている。
「あなたと共に生きたかったし、それができないのなら共に死にたい。そう思ってたんですよね。ふふっ、真面目ですよね私って」
うーんと両腕を上に挙げ、伸びをしながらアバンは笑う。
「あなたのはじめてももらわないと割りに合わないですよねぇ」
「勇者のくせに損得勘定で話をするのはいかがなものか」
「元、勇者です」
元魔王に説教なんかされたくありませんよ、と元勇者は頬を膨らませた。
「オレは人間によって禁呪法で蘇ったのははじめてだが」
「そんな奇特な人、私以外にいてたまりますか」
「自分が奇特だという自覚はあるんだな」
「どういう意味ですか、それ」
さも心外だと言わんばかりにアバンはハドラーを横目で睨み付けた。
「世界オレのものを半分くれてやるから配下になれと言っているのに、そこまでして手に入れたいと思っているのにだ、おまえは全くなびかなくて。何がなんでも自分のモノにしたかった。あの時は力づくで屈服させることが全てだったんだ。オレも若かったなぁ」
「何が若かったなー、ですか!もうっ」
やっぱり覚えてるんじゃないですかぁ、と再びバフバフと叩き始めた私から枕を奪い取ると、私の頭の後ろに回し、そのままぽすっとベッドに押し倒した。
「じゃあ今はオレの下になる気はないか勇者サマ?」
ニッと口の端を上げ、尖った牙を私に見せた。
そのちょっと意地の悪そうな顔が、昔から好きなんですよね、私。
さらさらと落ちるハドラーの髪がアバンの頬をくすぐる。
「私、もう勇者じゃありません」
そんな口説き文句じゃイヤですよ? と拗ねたように上目遣いで銀糸のカーテンをくいっと引っ張り見つめると、ハドラーもこちらを見た。
一旦私から目を逸らすと黒目を左右に動かし、えーと、とか、その、とか言いながら何やら一生懸命に言葉を探していたが、少し困った顔をした後、再び私と目を合わせた。
「お前が欲しい。オレを受け入れてくれ」
これじゃだめか? と言うかのように訴えている伏せた耳がなんだかかわいくて、思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ……上出来です」
元魔王にしては、と続く言葉は最後まで言えず、重ねた唇の隙間からシーツの波間へ消えた。
◇
ハドラーは思ったより遥かに優しく私の身体を暴き、私の身体は自分でも驚くほどあっさりハドラーを迎え入れた。
私はハドラーの腕の中で二つの心音を聞きながら、心地よい疲労感に包まれている。
彼を変えたのが私の教え子たちだということが、何より誇らしくて。
彼を変えたのは私ではないという事実が、何より悔しい。
私の青春はすべてあの時代に注ぎ込んだといっても過言ではない。
狂おしいほどの情熱をぶつけあった魔王と勇者だった頃の二人は、分かり合えないまま延々と続く平行線だと思っていたが、ほんの少し角度がつくだけでいつかは交わることができるものだったのだ。
人は変われる。
それは魔族であっても同じこと。
私にはハドラーを変えることはできなかった。
もしもあのとき交差することができたのなら、今とは違う未来があったのだろうか。
いや、考えるのはよそう。過去には戻れない。
あのときがあったからこそ、今こうして一緒にいられるのだから。
「アバン……痛むか?」
頭上からハドラーの少し心配そうな声がする。
「平気です」
あら優しいですねぇとアバンは額をぐりぐりとハドラーの胸に擦り付ける。
やめんか、と言いつつ全然嫌そうではない態度に思わず顔が綻ぶ。
顔を上げるといつになく真剣な面持ちのハドラーと目が合った。
「オレはもうお前を傷つけたくないんだ」
「一緒に暮らし始めてからずっと、爪短くしてくれてるの、気づいてましたよ」
「違う、そうじゃない、いや違わんな、それもそうなんだが、その、物理的な意味ではなくてな」
いかつい風貌の男が慌てふためく姿がなんともかわいい。
「わかってますよぉ」
アバンはふふふと笑いながらハドラーの太い首に手を回して顔を引き寄せると、ちょんと鼻先に口づけた。
「ありがとうハドラー」
ちょっぴり苦い感情を抱きつつも、アバンはハドラーの逞しい腕の中でとびきり甘い朝を迎えたのだった。
◇
そよ風に揺れて草木が薫る。
私はハドラーと共にあのときの丘の上に立っている。
15の自分に宛てた手紙を携えて。
二人の目の前には見渡す限りの青空が広がり、遠くの空では渡り鳥がV字に列をなして飛んでいる。
上空の風が強く吹いているのだろう、雲の流れが早い。
「以前もね、こうして手紙を飛ばしたんですよ」
そう言って紙飛行機を飛ばそうと手を振り上げたその瞬間、突如吹き荒れた旋風に驚き目を瞑った。
その瞬間、ハドラーが身を屈めて自身のマントの中に私を引き入れていた。
「大丈夫か?アバン」
「ええ。ありがとうございます。ハドラー」
アバンはしゃがんだままマントから顔だけを出すと、ズレた眼鏡をかけ直し辺りを見回す。
旋風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまったのか、紙飛行機はすでに見当たらなかった。
アバンは膝を抱えるように座り、どかっと胡坐をかいて隣に座るハドラーの横顔を眺めていた。
陽の光を受けた銀髪が風になびいてきらきらと光る。
「きれいですね」
思わず口をついて出た。
「何がだ?」
「あなたが」
「オレが?意味が分からん。お前のほうがよっぽど……」
「よっぽど?」
「……」
「照れてないでちゃんと言ってくださいよぉ」
ねぇねぇとハドラーにしなだれかかるように体重をかけた。
「うるさい!用が済んだならもう行くぞ」
「えっ、ちょっと待ってくださいっ」
照れ隠しからか急に立とうとするハドラーにもたれかかっていたアバンは体勢を崩しそうになり、慌ててハドラーの腕に掴まると、ハドラーはそのままアバンの腰に手を回し抱き寄せながら立ち上がった。
「帰りましょうか」
「ああ」
アバンがハドラーを見つめにっこりと微笑むと、ハドラーもまたアバンを見つめて頷き、その肩をぎゅっと抱いた。
アバンは頭の中に二人の暮らす家を思い描くと、ルーラを唱えた。
今、私は幸せです。
愛する人の隣にいます。
だから泣かないで。
あなたの願いはきっと叶います。
未来の私が言うんだから間違いありませんよ。
さあ、笑って。
笑顔を見せて。
あなたの未来は、きっと、
――銀色に輝いている。
この手紙が、私の声が、
時空ときを超えて、
あなたのもとに届きますように。